松江城にまつわる数奇な歴史とは?そこには悲しき伝説も

松江城にまつわる数奇な歴史を紐解く

 

2015年に国宝に指定された「松江城」。

 

島根県松江市のシンボルとして多くの観光客が訪れる場所です。

 

堂々たる天守を備え美しく堅牢な佇まいを有するこの松江城、じつは数奇な歴史に彩られています。

 

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美しい天守を持つ松江城

 

山陰地方で天守が残る唯一のお城として知られる松江城。

 

天守からは松江市内はもちろん、宍道湖の眺望も楽しめ、憩いの場として、また観光スポットとして賑わっている場所です。

 

B1Fから5Fまで、6Fフロアで構成された松江城は、高さ約30m。

全国で現存す12天守のなかでも3番目の高さを誇り、堂々たる風格です。

 

また白壁造りではなく、黒く厚い雨覆板でおおわれた「下見板張(したみいたば)り」という古い様式も特徴。

これによって、現在も黒と白のコントラストが美しいお城として知られています。

 

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松江城の築城と数奇な歴史

 

松江城の藩主家は堀尾氏、京極氏、松平氏と変わっていきます。

 

築城は堀尾吉晴(ほりおよしはる)によって行われ、1600年の関ヶ原合戦のあと松江の将来性に着目し、子の忠氏(ただうじ)とともに城地を移しました。

 

松江城のある亀田山を築城の土地としてすすめていたのは、じつは子の忠氏だったよう。

 

吉晴自身は別の土地に目をつけていたのですが、そんな折、忠氏が病気によって27歳で亡くなってしまいます。

これに胸を痛めた吉晴が現在の地に築城を開始し、1611年に完成したといわれています。

 

城主は吉晴の孫であった忠晴でしたが、あまりに幼かったために吉晴が忠晴をサポート。

 

松江城とともに城下町を建設し、現在の松江市の礎を築きました。

 

現在でも吉晴は「松江開府の祖」と呼ばれ、松江市民から愛される存在です。

 

 

京極氏の時代が到来

 

そんな吉晴も松江城完成後に亡くなってしまい、城主であった孫の忠晴の跡継ぎもいない中、跡を継いだのが、現在の福井県、若狭国小浜から出雲に入国した京極忠敬(きょうごくただたか)。

 

洪水でたびたび氾濫を起こしていた斐伊川を大土手によって改修したことで知られ、現在でもその名にちなんで「若狭土手」と呼ばれています。

 

忠高は徳川二代将軍・秀忠と、その正妻で大河ドラマでも描かれた江の四女・初姫を正妻として迎えています。

 

 

そして時代は松平氏へ

 

京極氏時代も長くは続かず3年ほどの短い統治期間を経て、現在の長野県、信濃国松本から出雲に入国した松平直政(まつだいらまさなお)の時代へ。

 

松平氏が藩主の時代は初代の直政から10代の定安(さだやす)まで続き、1638年から1871年まで長きにわたってこの地を統治。

松江に茶道文化を広めた7代・松平治郷(不昧公)の名もあります。

 

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松江城に伝わる悲しき伝説

 

このように、初代・堀尾忠氏は若くして死去、父の吉晴も完成後間もなく死去した上、2代目の忠晴も跡継ぎなしと長くは続かず、京極忠高も藩主になったあとに3年あまりで亡くなった上跡継ぎもおらず、松平氏へと引き継がれると、なかなか安定していません。

 

これには、なんとも悲しい背景が関係しているのではないかという言い伝えがあるのです。

 

築城に際し、石垣工事が難航していた松江城。

 

そんな状況を察して、吉晴の家臣たちが盆踊りに集まった人の中からいちばん踊りがうまくて美しい娘を選び、人柱にしようではないかと持ちかけたのだそう。

 

そして娘をさらい出し、人柱にしてしまったというのです。

 

なおこれは小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)という人が書き記した伝説であり、若い娘ではなく虚無僧であったという説もあります。

現在の研究でも築城にあたって人柱が立ったという証拠はなく、あくまで”伝説”として語り継がれている物語。

実際のところは人形やお札などが使われていたようです。

 

白と黒のコントラストが美しい松江城。

 

見事な天守を造り上げた3家の藩主や、築城の伝説に想いを馳せながら巡ると、またひと味違った見方ができそうですね。